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(主に大分の)珍種バス停写真のブログ。 バス停大好きっ子も厄年を過ぎました。
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PICT0173_R.jpg 大分県、旧中津江村のバス停。

中津江村って調べてみると、大正~昭和~平成とおそらく、どこにもないくらいの触れ幅でものすごい変革を遂げて今に到る所で。近代史、そしてちょっと未 来を含んだ日本現代史の縮図なのかもしれない。鯛生金山→蜂の巣城事件→カメルーンチーム招聘。何気に第一次産業・第二次産業・第三次産業の全ての資源を 駆け足で消費し尽くさせられた村ともいえよう。

産業革命、農業から工業へのシフト、公害・環境問題、巨大公共事業、反政府運動、ハコモノ行政、国際的イベントへの参加とその経済効果、市町村大合併…。これら全部、経験した場所とは俄かに信じがたいくらい小さく、静かな村だった。
行ってみて思ったことは一言、「そして今は…。」

バス停は想像以上に素晴らしかった。

PICT0174_R.jpg PICT0172_R.jpg
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DCF_0004_R.jpg大分県の中核市同士、中津と日田を結ぶ国道。その日田側から一番最初に控える峠道の旧道。
国道というやつは、世間のニーズに合わせて交通量もより大きなものを求められ、それに見合った道路が設計されて新しい道につけ変わっていくのが常。
山の峠道なんかになると、わざわざ橋をかけやすい上流まで昇っていくような細い道や、できるだけ勾配をなくそうと何度も九十九折で山を切り開くように伸び た道が。下流のほうにずどんと高架橋とトンネルをセットにした道につけ変わったりする。それは先人の努力が無駄になったのではなくって、われわれの技術の 進歩をむしろたたえるべきではある。

 できるだけ自然のあるがままに沿ってできたような道のことが多い旧道と、そうやっていかにも人が自然を征服したかのような工法の新道にはたいて い、互いに行き来できるようになってないことが多い。知り合いにそういう新道の、特に高速道路の施設点検をする業者さんの話を聞いたことがあるが、まず駐 車位置とアプローチに苦労するのだそうだ。

 それゆえバスは、日に一往復だけ、旧道の集落のおそらく学校の生徒のためにこの寂れた道を通っている。この待合室の前をかつては、峠越えのバスが日に何便も通り過ぎたのだろう。そしてその都度、幾ばかりかの人でにぎわったのかもしれない。
旧道は大変な狭い道で離合もままならなかったが、向こうから来る車は皆無だった。峠越えの道としての使命は終わり、静かな集落を結ぶ里道として伸びるこの 道。しかし並ぶバス停は、立派な待合室を携えていて、かつてのこの道が持っていた使命を忘れまいとしているようにも見えた。

 旧道部分を過ぎ、新道に戻ると。新道沿いには土産物屋、ほ場整備が済んでその辺りに移り住んだ人。道が、人の住む場所を変えていく。いずれこの道もどこかにつけ変わって、旧道になるんだろうかね。

DCF_0003_R.jpg

P1000125_R.jpg かつて日本には国鉄というのがあってだな。国が鉄道を運営していて、いたるところに鉄道網を張り巡らせていた時代があった。そしてその鉄道網は、いわゆる過疎地のほうにまでも延び。あるいは時代が変わり、人の住まなくなったような場所に空気だけを運ぶ鉄道線が生まれ。

 大分の山奥から、熊本の方向を目指したまま盲腸線になっていた宮原線が廃止になったのは昭和59年12月1日。かなり早い時期の廃止だ。鉄道とい う重厚長大な施設を維持するコストと、そのコストを捻出するために見込まなくてはいけない乗客数には全く見合っていない、沿線の人口密度。いかに温泉地 で、観光地であったとはいえ、それは仕方が無かったことなのだろう。

 ちょうど先日、五馬線を 再訪して写真を撮り尽し、杖立のほうから小国を通って九重のほうに抜けようと思った通りがかった県道。不意に、その巨大な橋が現れた。周辺は谷沿いの農 村、草生した鉄橋の真下にあるバス停は、それに見合うようにこじんまりとしていて、その橋だけが異様に大きな存在感を醸し出していた。
P1000126_R.jpg

PICT0049_R.jpg 鬱蒼とした森の中にたたずむ、傾いた待合室。中にはほど近い駅の時刻表、かつてのこのバスの時刻表。爪で引っかいた「ふざけるな」の文字。その、鉄板に記されたとおりであれば8本運行されていたこの路線も今や朝昼夕の3本のみ。

 ともかく、離合とかいう言葉とはかけ離れたような山道を延々と行くこと1時間。高原の真ん中を縫うようにして走る道路沿いには、ちらほらと民家、 そして田畑。どこまで分け入っても人がいる。見えなくても、どこかに。森に差し掛かっていると三叉路の予告標識とともに「この先右は○○集落」、そしてそ こにバス停。

 集落は森に遮られて、そこからはちっとも見えない。空は見上げないと見えない。だが、ここに人が来る証だけがそこにあって、孤独の不安がどこかに行くのだけがわかる。

 そういえば、昔のその時刻表には「宇ノ木行き」という表記があるのだが、これは松原ダムの湖底の集落。
杖立に向かう国道のトンネルに名前が残っています。
松原ダムといえば蜂の巣城闘争。

 ※そうそう、この文章書いたり写真撮った当時は平気だったんですが2009年夏現在、このバス停の待合室は床が完全に腐ってしまっています。もしこのブログを読んで探訪しようと思った方、絶対に中に入らないでください。(この文章を以って警告とし、一切責任を負いません)

P1000118_R.jpg PICT0047_R.jpg P1000120_R.jpg

20060122.jpg 見そびれちゃったよ鉄腕DASH。

  なんか見た人の話によるとこのバス停から乗ったらしい。
次のバス停まで歩いたら、天神行きがあったのにね!

 大昔住宅地図の調査のバイトしてたとき数回志賀島は半周しましたが、毎年冬場にしか行かなかったので自分の印象は「寒い」これだけです。

あ、このバス停の名前の由来はまんまです。金印が出たといわれる場所のすぐ下。
隣のバス停は「蒙古塚」で、塚つながりというなかれ。かたやお宝発見、かたや処刑場・・・!



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★激動の昭和の荒波に耐えて田舎に都会に生き残る、珍バス停たちが大好き。しかし嫁は全く無理解。
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